浪士討ち入りの前日に授業 去る十二月十四日は、赤穂浪士討ち入りの三百年目に当たる日だった。その前日の十三日、東京都内のある小学校で、「武士道」の授業が行われた。授業にいたる経過は次の通りである。 勤務先の大学で「教材開発研究」という演習の授業を担当している。今年、学生に与えた課題は、本紙に連載された記事をまとめた『地球日本史3・江戸時代が可能にした明治維新』(扶桑社)の中から各自が興味を持ったテーマを選び、実際に授業にかけることを想定して教材を開発することだった。そのうち、笠谷和比古氏の「武士道とデモクラシー」を選んだ二人の男子学生が、右の小学校のご好意で六年生の二クラスを借りて特設授業をさせていただいたというわけだ。 授業は「忠臣蔵」の劇映画を五分程度にダイジェスト編集したものを観ることから始まった。朝廷からの勅使の接待役を務める赤穂城主・浅野内匠頭が指南役の吉良上野介からいじわるをされ、我慢の限界に達して殿中松の廊下で吉良に斬りつける。内匠頭は切腹させられお家取りつぶしの処分を受けるが、吉良にはおとがめなし。浅野家の家老大石内蔵助らは他家仕官の道を捨て、同志四十七人が翌年吉良邸に討ち入り主君の恨みを晴らしたのち、幕府の命に従い切腹して果てる。 このお馴染みのストーリーの細部まですでによく知っている子どももいたが、この話に初めて接する子どもも多かったようだ。教師(学生)は、「一七〇二年(元禄十五年)十二月十四日」と板書し、赤穂浪士の討ち入りが丁度三百年前の出来事であったことを確認した。 『葉隠』で武士の心得説明 次に教師は、「武士道とは死ぬことと見つけたり」という一文を黒板に大きく板書した。この言葉が元禄時代に佐賀藩で編纂され、武士の心得を説いた『葉隠』という書物に載っていることを説明し、その現代語訳の文庫版を手に掲げて見せた。では、この言葉は武士に何を求めているのだろうか。なるほど赤穂事件の例にもあるように武士は主君のために殉じることがある。だが、この言葉はよく誤解されてきたように、単純に死を求め死を美化しているものではなく、死ぬ覚悟をもって主君によく仕え職務を全うしてよく生きることを求めているのである。教師は本の一部を引用して解説する。 それから教師は、「忠義」という言葉を板書し意味を説明した上で、「もし主君の命令が間違ったもの、自分の信念に照らし合わせて納得のいかないものであったらどうするか」と問いかけた。@主君の命令であるので、どんなに納得のいかないものであっても自分をおさえて言うとおりに行動すべきである、Aたとえ主君の命令でも間違っていると思った時はどこまでも間違いをただそうとすべきである、の二つの選択肢から選ばせたところ、子どもの予想はほぼ半々となった。『葉隠』では、Aが武士の「忠義」の道として説かれていることを示し、主君の誤りを正そうとするこの行為を「諫言」とよぶことを教えた。 この先が授業のクライマックスである。教師は問いかける。「では、いくら諫言しても行いを正さない殿様だったらどうするか。皆さんがこの藩の家老だったらと考えて選んでほしい」。選択肢は、@だまって従うAどこまでも諫言するB幕府に言いつけるC牢屋にとじこめる、の四つである。AとBを選ぶ子どもが多く、Cはごく少数である。この問題に絶対の正解があるというわけではないが、意外にも江戸時代には「主君押込」とよばれるCの慣行が行われていたのである。 精神の栄養になる教材必要 このように、「忠義」とは目の前の主君の恣意に単純に従うことではなく、それを超えて藩や家の存続のために尽くすことだった。こうした「忠義」の観念があったから、幕末に武士たちが藩の枠を超えて日本の存続のために立ち上がって明治維新をなし遂げることができたのである。授業の最後は、右のことを藩主の立場から述べた上杉鷹山「伝国の詞」から、「国家(米沢藩と上杉家)は藩主の私有物ではない」など三箇条をプリントで提示した。 子どもたちは授業を歓迎してくれた。感想文に「忠義というのはいつの時代にもあったほうがいいと思った」と書いた子どもや、「『葉隠』を自分で読んでみたい」という子どももいた。担任の先生によれば、ある男の子は「小学校で教わった社会科の中でこの授業が一番おもしろかった」と言ってくれたそうだ。武士道の思想を小学生に教えるなど難しすぎると考えるのが常識だろう。そうではない。今の学校は子どもの抵抗感をなくすことだけに気を遣い、おかゆのような教材ばかりを与えがちである。子どもを成長させる精神の栄養になる教材が必要である。 |
