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授業実践報告
朝鮮国王『高宗』と首相『李完用』
〜「日韓併合」までの流れを追う〜
前篇

服部 剛(横浜市公立中学校教諭)
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※本文中、●=教師の発言
○=生徒の発言
1.はじめに
はっきり申し上げて、日韓には歴史認識において深い溝がある。韓国側の主張は、端的に「我が方の歴史観が正しい歴史認識」であるから日本の歴史認識もそのようにせよ、と言っているに過ぎない。
一方、我が国においては、ひたすら贖罪史観で、公正な認識が浸透しない空気が続いている。
この空気は、政界、マスコミ、教育界あげて支配的である。しかし、普通の人間は自己の存在を肯定しなければ精神に支障をきたす。偏向した認識を学校教育によって刷り込まれ、ご先祖から自分にいたる縦のつながりを一貫して貶められた若者はどうやって精神の平衡をとれば良いのか。
我が国では、このような言論の状況下で若者たちが葛藤をうまく処理できないまま放置され続けてきた。その結果として、若者の中に生まれた感情は何か。媚びへつらう臆病か嫌韓・反韓感情である。
今の若者には、葛藤を克服するに足る情報と知識を持っていないから、これは自然な流れである。しかし、この様な状態は健全とはいえないだろう。
今回は、「日韓併合」の授業報告である。我が国の立場を押さえ、多面的な理解がで きるように心がけた。 (2時間扱い)
2.授業の流れ
●1910年に何があったか知っている人はいますか。
○日韓併合です。
●そうですね。今日は日韓併合の勉強をします。ところで「併合」ってどういう意味か知っていますか。
○合わせること。
○植民地にすること。
○いっしょにすること。
●併合を反対にすると…。「がっぺい」と読みますね。この年、我が国と韓国は合併して一つの国になったのです。厳密に言うと、西欧型の植民地支配とは全然違うのですが、その話はもっと先でやりましょう。いずれにしても、この日韓併合で韓国は独
立を失ったのです。
日清戦争の前、我が国が韓国(当時は朝鮮王国)に対して持っていた考えはどのようなものだったでしょうか。
○しっかり独立していてほしい。
○近代化して日本と一緒に欧米と戦う。
●そう、文明開化を実行して、近代的独立国家になってほしい。そうして、我が国と連携して、欧米の脅威から東アジアを守ろうというものでした。
●しかし、韓国は日本に併合されてしまいます。当初の希望とは、全く反対の結果になってしまいました。以前学習したように、我が国はあれほど韓国の近代化に精魂を傾けてきたにもかかわらず、です。何でそうなってしまったのでしょうか。どうしてだと思いますか。
○領土がほしくなったから。
○金儲けがしたかった。
●そうですか。では、併合に至るまでの流れを詳しく見ていきましょう。ここでのキーマンになる重要人物は朝鮮国王「高宗」です。この高宗の動きを追っていくことが大切です。そして、朝鮮はこの国王のもとに内閣を持っていました。時の総理大臣が「李完用」です。この人も重要な働きをします。
【第一段階】
●前に学習した通り、朝鮮問題がこじれて、日清戦争になりましたね。そして、日本の勝利で終わりました。 さて、
問一 1895年「下関条約」の第1条には何と書いてありましたか。
○「朝鮮は独立国」です。
●「朝鮮国は自主独立の国」と取り決めました。さて、そこで戦後すぐに三国干渉です。我が国はロシアの脅威を思い知りました。その様子を見ていた朝鮮がどうしたか、考えていきましょう。
問二 ここで、朝鮮国王の高宗はどのような行動をとったと思いますか?
A.今まで通り清国を頼った B.清に勝った日本を頼った
C.その他の外国を頼った D.独立国家を目指した
※ヒント…朝鮮の伝統的政策=事大主義。「勝った方が我が方」政策
これが最善の策と直感で思ったものを答えさせる。なぜ、それを選んだか、生徒の意見を聞く。以下同じ。
●答えは、Cです。実は、この事実はすでに学習していますね。朝鮮はどの国に頼りましたか、思い出してください。
○ロシアです。
●そう。ロシア帝国は、ここぞとばかりに朝鮮国内の親日派への弾圧を開始し、諸制度改革を廃止していきました。
次の質問に答えてください。すべて勉強済みですよ。
問三
A.1896年から1年間高宗はどこで政治をしていましたか。
B.1897年、高宗は中国の元号を廃止し、「皇帝」を称しました。そして、国号を何と改めましたか。
C.高宗は鉱山の利権や鴨緑江河口の港「龍岩浦」朝鮮南部の港「木浦」「馬山浦」をロシアに貸し与えていきました。
このことは我が国にとって何を意味しますか。
この部分は、「日露戦争」の流れの中で既に学習済みのことなので、生徒はすらすら答えた。答えは、
A.高宗は「ロシア公使館」で政務を執っていた。「露館播遷」という。
B.ロシアの力を背景に命名した新しい国名は「大韓帝国」である。千年以上にわたる中華思想の克服を意味している。
C.ロシアの勢力が目前に迫ってくるという事態は「我が国にとって安全保障上の一大事」を意味している。
【第二段階】
●その結果、1904年、何が始まったのですか。
○日露戦争です。
●1904年2月、日露戦争が開戦。では、戦争中の高宗の行動に注目していきましょう。
問一 日露戦争が始まり、まずは我が国がロシアに先勝しました。すると、韓国政府の空気は、どうなったでしょうか?
A.ロシアを応援した B.清国を頼った
C.「親日」に一変した D.その他の外国を頼った
●答えはC。事大主義の本領発揮です。そこで、我が国はどうしたか、戦場は朝鮮の向こうの「満州」でしたから…、
・1904年2月『日韓議定書』を調印
これで、日本軍は朝鮮半島を通って、兵を進められることになりました。そして、
・同年8月『第1次日韓協約』を調印
この協約は、日本政府の推薦する外国人を財政や外交の顧問にするように取り決めたものです。その目的は、まず、疲弊した韓国財政を立て直し、悪貨を整理するため。高宗をはじめ、韓国宮廷は莫大な税を浪費していましたからね。また、外交については事大主義に陥る性格を是正するためでした。要するに、もう引っ掻き回されたくなかったのですね。ちなみに財政顧問は日本人に、外交顧問はアメリカ人になりました。
[板書]
日本の考え〜朝鮮半島に「親日的で健全な政府」ができれば充分だ。
●そして、同年12月「一進会」という韓国人団体が結成されます。どんな団体かというと、「東学党」や「独立協会」などといった朝鮮のあらゆる改革団体が結集したものでした。リーダーは李容九、宋秉S(へいしゅん)といった人たち。何と会員数100万人といわれていました。100万とはちょっと多く見積り過ぎのような気がします。しかし、当時朝鮮の人口はおよそ1500万人といいますから、数十万人でも相当な勢力といえるでしょうね。
彼らは、韓国の危機を打開するために日韓の連帯を主張し、日露戦争では日本軍に協力し、鉄道建設や物資運搬に努力しました。リーダーの李容九は日露戦争をどうとらえていたかというと、
【資料@】
「一進会」李容九の主張
「日露戦争は、ロシアに代表される西欧がアジアを侵略する最後の決戦である!」
●という認識でいたのですね。
では、このような状況の中、朝鮮国王高宗はどうしたでしょうか。
問二
日露戦争真っ只中の時期、皇帝の高宗はどのような行動をとったと思いますか。
A.日本との協約を守った B.外国を頼った C.独立国家を目指した
事大主義の行動を前提に考えてきたので、Aを選んだ生徒が多くいた。正解はBである。
●なぜ、Bなのでしょうか。実は、高宗は自分の意のままにならない状況が嫌だったのです。日本が政治を指導することになってから、好き勝手に税金を絞り取ることができなくなった。また、国のお金を自分のために勝手に使えなくなってしまった。だから我慢がならなくなったのです。外交も同じ。制約される生活が嫌になってしまったようです。
では、具体的には、どのように外国に頼ったのでしょうか。
[板書]
ロシア、アメリカ、フランス、イギリスに密使を送る。
↓
日本の行動に干渉してほしい。
(韓国外交を5年間、大国の共同保護の下に置くことを希望する)
●調べていくと、その他にも高宗はこんな行為をしていたことが発覚しています。
・日本軍の電話切断や鉄道爆破などゲリラ行動を起こした。
・ハルバート(米)、ベッセル(英)に資金を渡して反日新聞を発行させた。 など、西欧人を利用して、日露戦争中の日本の行動を妨害し、外国の干渉を呼び込もうとしていました。
●さて、1905年9月「日露戦争」が終結し、「ポーツマス条約」が締結されます。条約の内容を覚えていますか。
[板書]
ポーツマス条約 日本の「韓国に対する優越権」を認める。
●というものでした。我が国の対韓措置について、アメリカの反応はどうだったでしょうか。T.ルーズベルト大統領はこう言っています。
「将来の禍根を絶やすには保護化あるのみ。それが韓国の平安と東洋平和の最良の策」 と述べました。また、イギリス政府は、「日本の対韓措置に異義なきのみならず、その成就を希望する」とコメントし、我が国への支持を表明したのです。我が国は元気づけられました。
【第三段階】
●さて、いよいよ第三段階です。ここに至って、我が国は韓国への指導を一層強めていきます。
・1905年11月『第2次日韓協約』締結
この条約は別名、「日韓保護条約」とも呼ばれています。韓国は日本の保護国となりました。なぜなら、日露戦争に勝ったとはいえ、安全になったのは南満州だけで、まだまだロシアの勢力は韓国との国境付近に存在していたからです。再びロシアが韓国に介入するおそれは残っていて、またまた高宗がロシアの浸透を許してしまったら、日露戦争の意味が全くなくなってしまいます。そこで、「極東の安全を脅かすことのないように韓国の外交権を日本が持つ」という条約を結んだのです。
我が国は「韓国統監府」という役所を首都「京城(今のソウル)」に置きました。その初代統監となったのが「伊藤博文」です。もう60歳を越えていましたが、韓国を近代化するためには、明治維新を成し遂げた伊藤の手腕を必要としたのです。伊藤の指導方針もまた、韓国を近代的独立国家として育成する、というものでした。
●しかし、日本の保護国になったという事実は、誇り高い韓国の一部民衆を刺激しました。死をもって抗議しようと自決する者まで出ました。国を愛する気持ちはどこでもいっしょですね。また、反日抗争が各地で勃発し、条約調印に賛成した大臣の暗殺未遂事件など過激な事件も起こっています。
問一 保護国となってしまった後、高宗はどのような行動をとったと思いますか。
A.日本との条約を守った B.条約を守らず、外国を頼った
C.条約を守らず、独立国家を目指した
答えはB。高宗に再び事大主義的発想が頭をもたげてくる。
●何と、高宗は再び密使を送ります。当時、オランダのハーグで開かれていた「万国平和会議」に密使を送り込んだのです。これを「ハーグ密使事件」といいます。ちょっとした国際問題になりました。高宗の密使たちは、日本の非を鳴らして欧米諸国の干渉を誘います。
[板書] 1907年6月
ハーグ密使事件
高宗、列強の力で日本の勢力を追い出そうと画策する
問二 万国平和会議に参加していた欧米諸国は、突如現れた韓国皇帝の密使たちに対し、どのような態度をとったでしょう?
A.各国とも相手にせず、門前払いにした B.各国とも韓国への協力約束した
C.各国とも同情したが、協力せず
答えはA。生徒の考えは、ABCに割れた。若干、Cが多かった。現代的感覚である。
●欧米諸国は、密使たちを全く相手にせず、高宗の要請も黙殺しました。なぜでしょうか。欧米諸国は、高宗の行動が条約違反の行為であるということを知っていたからです。独立主権国家が、外交権を持っていないものを国際会議の場に参加させるわけがないですね。これを認めたら国際秩序が乱れてしまいます。だから、密使らはあっさりと門前払いされてしまったのです。
●さて、このハーグには我が国の政府代表もいたのですね。日本の代表はどうしたと思いますか。
○怒った。
●そうですね。条約違反ですから。激怒して、至急本国に連絡して対応することにしました。日本政府がいろいろ調べていくと、その他にも高宗の不穏な行動が明らかになっています。 例えば、1905年11月、アメリカ人のハルバートという者に密書を持たせて、ルーズベルト米国大統領に日本への干渉を依頼しています。ルーズベルト大統領は「韓国のために日本とは戦えない」と拒否しましたけど。また、1906年7月、高宗が伊藤博文と長谷川軍司令官を暗殺する秘密命令を出していたことが発覚しました。
問三 一方、韓国の内閣はハーグ密使事件を知ってどう反応したと思いますか?
A.何も反応しなかった B.韓国内閣は高宗を応援した
C.韓国内閣も日本と同様激怒した
答えはCだが、生徒の考えは、BとCで割れた。難しい選択である。
●BとC、どっちもありえそうだね。では、高宗の考えと韓国内閣の考えを読んでみましょう。資料A・資料Bを読むと答えがわかりますよ。また、高宗を巡る一連の問題の争点もはっきりします。
【資料A】 韓国皇帝・高宗の考え
「これまで、日本はその武力を背景にして、ことあるごとに私の政治に干渉してきた。今回の保護条約の時も、伊藤は大韓帝国の閣議にまで乗りこみ、それを仕切った。私は終始一貫して保護条約には反対したにもかかわらず、伊藤の辣腕(らつわん)の前に大臣達は調印してしまった。これは許すことはできない。大韓帝国の主権は私にある。皇帝の私が条約に不承認なのである。だから、条約は無効である。」
【資料B】 韓国首相・李完用の考え
「朝鮮王室は専制君主制を維持しようとし、いつまでも文明開化を拒否してきた。又、皇帝は日本との条約を何度もやぶってきた。又、皇帝は日本との条約を何度もやぶってきた。今、改革を実施して立憲君主国にならなければ、ロシアなどの列強に浸食され、国民に対して責任が果たせない。私は、アメリカ公使だった時の経験から考えて、今の実力で我が国の自主独立は不可能だと思う。韓国の近代化を成し遂げるためには日本の力を借りるしかない。それゆえ、日本の政策に協力すべきである。これしか韓国の生き残る道はないと信じる。
○Cだ、(という生徒の声)。
●韓国政府も、せっかく順調に文明開化を目指してきているのに、困ったことをしてくれたと怒ったわけです。
この高宗の主張は、ハーグの密使が語ったことでもあります。これでは欧米諸国は納得できませんね。
問四 ハーグ密使事件が発覚し高宗は「知らぬ存ぜぬ」ととぼけました。これに対し韓国の内閣は高宗に対してどんな処分を下したと思いますか。
A.皇帝を処分などできません B.二度としないと誓書を書かせた
C.強制的に皇帝をやめさせた
生徒の答えはBが多数。さすがにAはいなかった。答えはC。皇帝が「やめさせられる」ということが、生徒には意外だったようである。
●皇帝の高宗はとうとう退位することになりました。かわって、新皇帝には、高宗の第二子である純宗が即位しました。そして、
・1907年7月『第3次日韓協約』調印
●この協約で、「韓国の内政は統監の同意と指導を受けること」になりました。結果、加速度的に韓国は近代化していきます。
また、「韓国軍は解散」させられました。なぜなら、当時の韓国軍は内乱鎮圧の実力もなく、規律も悪かったため国費の無駄遣いだったからです。後に、近代的軍隊を創設するつもりでした。
しかし、ここでやっかいなことが起こります。解散させられた軍から武器が流れ出てしまったのです。武器はどこに行ったかというと、日本の介入に抵抗するグループに渡りました。その結果、ゲリラによる反日暴動が各地で起こりました。これを韓国では「義兵闘争」と呼んでいます。
1908年頃、暴動がピークをむかえますが、彼らは「資金」がありません。義兵の中には盗賊まがいのことをする集団も出てきて、韓国人ですら1250余人も殺害されています。そのため、韓国人側も「自警団」を作って自衛するなど、民衆の支持を得られず、4年ぐらいで終息してしまいました。(続く)
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