占守島の戦いと軍使・長島厚大尉
(その6)
自由主義史観研究会理事 上原 卓
年 表(時局と長島厚とのかかわり) |
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昭和 年月 |
時局の推移 |
長島厚の経歴 |
19年4月 |
第91師団、北千島で面式防御態勢づくりを開始する |
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19年5月 |
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占守島に着任 |
10月 |
来島連隊長に従い占守島の実地調査をする |
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同月 |
第91師団司令部に転勤、参謀部にはいる |
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12月 |
北千島4島を調査する |
大尉に進級 |
■ 長島中尉、占守島に着任
昭和19年4月24日、長島中尉が乗った第2梯団の天領丸は軍艦宗谷に先導されて小樽港を出発し、アメリカの潜水艦や航空機の攻撃の合間を縫いながら4月29日、幌筵海峡に入った。
長崎浜から特別大型発動艇(特大発=上陸用舟艇)が近づいてきた。特大発は、平らな舳先を前に倒せば将兵や車両がそのまま上陸できる構造になっている。占守島に陸揚げされた戦車と物資は、向ヶ岡に運ばれた。
長島中尉は、この第91師団の戦車第11連隊指揮官として占守島に着任した。戦車連隊長の来島(くるしま)則和大佐は、翌日から戦車に乗って占守島の地形調査を開始した。戦車が作戦行動をとる際に必要な情報をえるためである。長島中尉は、この調査に同行した。
占守島は、南西から北東へおよそ30キロメートル、幅が最大で20キロメートルある楕円形の島である。占守島の先端は、幅12キロメートルの千島海峡を隔ててソ連領のカムチャツカ半島のロパトカ岬と向き合っている。
占守島のもう一方の端は、幌筵海峡を挟んで幌筵島に接している。この幌筵島の柏原には、第91師団司令部が置かれている。
占守島の面積は385平方キロメートルある。これは、硫黄島の面積の約18倍であり、東京山手線に囲まれた地域の約6倍の広さである。
千島列島は、火山質列島であり全体としての地勢は険峻である。今なお火山活動をおこなっている島もある。海岸線のほとんどは断崖絶壁になっていて港湾を得にくい。各島には、険しい山岳がそびえ立ち、至るところに沼沢地や湿地がみられる。千島列島の南のほうの島々は針葉樹林に覆われているが、北にゆくにつれて島の樹木は矮小となり、人間の背丈よりも低いハイマツ類が密生している。
地を這うように広がるハイマツの枝は、戦車にとって難物である。キャタピラがハイマツの硬い枝を巻き込むと、戦車は動けなくなり、敵に狙われやすくなるからである。
占守島の冬は長く寒い。短い夏には、20メートル先も見えないほどの霧がしばしば発生する。戦車隊が、濃霧のなかで戦闘行動をとる場合、ハイマツに絡まれぬ用心に加えて、戦車が沼沢地にはまり込まぬよう気をつける必要がある。
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来島連隊長(右から4番目)と長島中尉(その右隣り) |
占守島には、南北に貫く稜線に沿って占守街道がつくられていた。幅6、7メートルの道路である。湿地帯には丸太で土留めを施してあり、川には橋を架けられ、丘は切り通しにしてある。兵士達の手作業で行われたものである。
来島連隊長たちは、占守街道を北東に進み、四嶺山(しれいざん)の右手に出た。四嶺山は男体山、女体山、双子山からなっており、標高は171メートルである。四嶺山の北側斜面には草原が広がり、所々にハイマツの藪がみられた。
斜面の4キロメートルほど前方には、砂浜の海岸が延びていた。全長およそ3キロメートルの竹田浜である。岩礁と絶壁にかこまれている占守島で唯一の広い砂浜である。アメリカ軍が占守島に上陸してくるとしたら竹田浜以外にはないと想定した第91師団は、竹田浜北端の国端崎と南端の小泊崎と竹田崎に洞窟陣地をつくっていた。
地勢を調べ各部隊の配置を記録しながら国端崎にはいった来島連隊長たちの前に、監視哨が見えてきた。監視哨では、占守海峡を通るソ連船籍をもつ船舶を監視していた。
監視哨から少し離れたところに、岩盤をうがち太い丸太で補強した天井のある速射砲陣地があった。陣地はコンクリート造りで、土を盛ったその屋根には草木を生い茂らせ、建造物と気付かない擬装が施してあった。時折、アリューシャン方面から飛んでくるアメリカ軍の偵察機の目をごまかすためである。
対アメリカ戦を予想して千島列島の要塞化を進めている第5方面軍(司令部は札幌にあり、司令官は樋口季一郎中将)は、占守島と幌筵島を中心に43000の兵力を配置していた。
しかし、昭和19年から20年にかけて、本土決戦や北海道防衛のために引き抜かれていき、最終的には24500の兵力に減少することになる。
■ 長島中尉、北千島の実地調査をする
昭和19年10月1日、長島中尉は、戦車連隊から第91師団司令部の参謀部に配属替えとなった。師団司令部に入った長島中尉は、柳岡参謀長から第91師団が守備範囲にしている北千島の島々の実地調査を命ぜられた。
長島中尉は、部下2名を率いて、幌筵島に隣接する阿頼度島を皮切りに、温禰古丹島、春牟古丹島、捨子古丹島を巡視し、地形と陣地の状況を確認して廻った。
ここに、北千島の厳しい気象条件とそのなかで守備についていた将兵の苦労の一端をうかがい知ることのできる貴重な資料がある。それは、昭和18年10月、幌筵島の南端にある武蔵基地に配属されて北千島守備についていた伊佐二久少尉が、後年、「北千島慰霊の会」の機関誌に寄せた一文である。その要旨を、以下紹介する。
吹雪が物凄く風速55メートルに達し、這って行こうとしても風で押し戻される有様でした。兵舎がなく島の樺里地区でテントを張りましたが、厚いテント生地がズタズタに裂けるほどで、10メートル離れた便所に行ったきり迷って帰れず凍死する人や、吹雪には慣れている犬橇が遭難する例もありました。ある部隊のテントが雪崩に遭って潰れ生き埋めとなり、私たちが助けに行きましたが何人かは死にました。(中略)
春になると吹雪の代わりに霧が深く自分の足元さえ見えないほどで、海軍機が霧で着陸できず、とうとう岸壁に衝突して死亡、これを収容して荼毘に付し、僧侶の兵隊さんにお経を上げてもらい海軍から感謝されました。(中略)
海が荒れると食料が届かず、飢えに苦しみ雑草やネズミまで食べました。ブシというアイヌ人が毒矢に使う草を食べて全員下痢したこともありました。アザラシが岩の上に寝そべっているのを機関銃で掃射し肉で飢えを凌いだこともあります。温かくなると産卵のため川に鮭が群れをなして上がってきます。銛をつくって岸から突いて捕まえ食糧の足しにしました。兵舎の入口に鮭を干しておいたところ、夜中にヒグマが来て食べられたこともあり、あるときはアイヌ族の兵隊が歩哨で立っていたのにヒグマが来訪、さすが勇敢なアイヌ族だけにヒグマを射殺、おかげで私達もヒグマの肉をご馳走になりました。(中略)
北国で吹雪が多いだけにハイマツという低い木ばかりですが、ちょっと歩くとキタキツネや雷鳥が人見知りしないため、近くまで寄っても逃げずにいます。機にはヒグマが谷を走っているのも見かけました。ヒグマの一撃を受けたら人間の頭など吹っ飛ぶと聞きました。
第91師団2万余の兵力は、その大部分が占守島および師団司令部のある幌筵島北端の柏原付近に配備されていた。これを逆にいえば、幌筵島の中央部から南部にかけての沿岸や、阿頼度島を皮切りに、温禰古丹島、春牟古丹島、捨子古丹島の沿岸に配備されている兵員は少なかった。
いつ襲来するか知れない敵に備えて陣地を守る将兵たちは、荒涼とした原野を眺め、陣地のある断崖の上から寒々とした海を眺めながら単調な日々をすごしていた。悪天候が続いて海が荒れ狂うと、柏原からの食糧補給船の接岸ができなくなり、陣地を守る将兵たちは孤立感に耐えなければならなかった。
これらの陣地を訪れた長島中尉一行は、手土産にもっていった羊羹と酒を渡して将兵たちに大いに喜ばれた。将校ぶらず誰に対しても気さくに話しかける長島中尉の人柄は、将兵に親近感と信頼感を与えたであろう。
こうした短い交流のなかで生まれたお互いの親近感と信頼感は、後にソ連の軍艦に同乗して堤師団長の武装解除命令を伝える任務を与えられた長島大尉が各島の陣地を再び訪れたとき、将兵たちをしてすんなりと武装解除に応ぜしめる大きな要因になったと思われる。
長島中尉の調査目的の主なものは、アメリカ軍の戦車が上陸する可能性のある島と地点の予測であった。長島中尉は、歩兵同士の戦いになったとき戦車の有無が、戦局を大きく左右することを知っていた。長島中尉は、アメリカ軍戦車が上陸し作戦行動をとれる島として占守島の可能性がいちばん高いこと、日本軍の戦車を占守島に配備するにしくはないことを再確認した。
北千島調査の後半にはいった12月1日、長島は大尉に進級した。長島大尉は、寒風吹きすさぶ12月下旬に調査を終え、調査結果を柳岡参謀長に報告した。
■ 北千島の防御態勢
昭和19年5月、日本軍はマリアナ諸島付近でアメリカ軍と戦った。日本軍は主力を海岸沿いに配置し、上陸してくるアメリカ軍を波打ち際で撃破する水際(すいさい)作戦をとった。
しかし、アメリカ軍は、偵察機を使って日本軍の攻撃陣地を見つけ出し、その陣地に対して軍艦と飛行機による艦砲射撃と爆撃を加え壊滅的な打撃を与えたのちに、難なく将兵を上陸させた。そして、残存する日本将兵を掃討殲滅した。
水際作戦をとって火力を海岸線付近に集中配備しても、敵に損害を与える前にこちらが甚大な被害をうけ、その後の戦いを決定的に不利にしてしまう。このような過去の手痛い教訓に学んだ第91師団は、アメリカ軍を上陸地点で邀撃する水際撃滅作戦から、アメリカ軍を上陸させ地理不案内の内陸に誘い込んだ上で撹乱攻撃する面式防御作戦(または縦深陣地作戦)に切り換えた。
第91師団は、アメリカ軍が上陸すると予想される占守島の竹田浜付近に沿岸拠点をつくった。(5頁の地図参照)すなわち、竹田浜海岸の北側に位置する国端崎と南側にある竹田崎と小泊崎に洞窟陣地をつくり、ここに速射砲、野砲、歩兵砲などをもつ歩兵小隊を配備した。上陸するアメリカ軍を水際で攻撃するためである。四嶺山に根拠地をおく歩兵大隊も、この作戦行動に協力参加することはいうまでもない。
竹田浜で消耗させられながら上陸したアメリカ軍は、占守島の内陸に向かって進撃するであろう。それを迎え撃つ日本軍は、地の利を生かして敵の側面や背後から不意打ち攻撃をくわえる。ゲリラ戦法である。
戦車第11連隊の連隊長池田末男大佐(来島則和大佐の後任として昭和20年1月に着任)は、アメリカ軍の戦車に対して、速射砲と歩兵による攻撃と協同しながら戦う心づもりであった。
アメリカ軍戦車の防御力と戦車砲の火力は、日本軍戦車のそれに勝っていた。そのことをよく知っている池田連隊長は、戦車の車体を土壁の中に隠して攻撃し、敵に位置を覚られそうになると別の遮蔽物の蔭に移動して再び攻撃を加える作戦をとることにしていた。
占守島に上陸してきたアメリカ軍は、多大な損害を蒙りつつも圧倒的に優位な火力と将兵の数にものをいわせて更に進攻するであろう。そしてアメリカ軍が最後にぶつかるのは、日本軍の主陣地線である。ここで日本軍は猛烈な攻撃を加える。併せて、ゲリラ戦を戦って生き残っている日本将兵も、背後からアメリカ軍を攻撃する。
竹田浜に上陸して20キロメートル進んだアメリカ軍は、補給線が長くのびている。弾薬と糧秣をたっぷりもっている日本軍は、機を見て防御から攻勢に転じ、勝機をみいだす。これが、北千島の防衛を任務とする第91師団の面式防御作戦であった。
昭和20(1945)年8月時点における占守島全域と幌筵島南部の兵力配備状況は、次の通りであった。
陸軍(約23000人)
- 第91師団:師団長・堤不夾貴中将
- 師団司令部と歩兵第74旅団:旅団長・佐藤政治少将
- (5個大隊)〜幌筵島
- 歩兵第73旅団:旅団長・杉野巌少将
- (5個大隊)〜千歳台
- 独立歩兵第282大隊〜四嶺山.
- 独立歩兵第283大隊〜千歳台
- 戦車第11連隊(中戦車39両、軽戦車25両)
- 師団編合部隊〜占守島
- 第1中隊:山田野
- 第2中隊:田沢台
- 第3中隊:天神山
- 第4中隊:大和橋
- 第5中隊:緑ヶ岡
- 第6中隊:基谷
- 第11対空無線隊
- 船舶工兵第57連隊残留隊(特大発動艇20隻)
海軍(約1500人)
- 司令官:伊藤春樹中佐
- 占守通信隊
- 第51警備隊
- 第52警備隊
- ※航空部隊
- 陸軍飛行第54戦隊残留隊(一式戦闘機4機)
- 海軍北東航空隊北千島派遣隊(九七式艦上攻撃機4機)
(以下次号)



