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検証・沖縄集団自決高裁判決

−あなたなら、どのような審判を下しますか?−


自由主義史観研究会では、過去3回にわたって沖縄集団自決の特集をしてきた。今回はより多くの方々に真相を理解してもらうため、大阪高裁判決(2008年10月31日)を検証する。痛ましい集団自決は、赤松隊長(当時25歳)と梅澤隊長(当時27歳)の命令によるものなのか。あなたが裁判員になったつもりで、この一点について判決を下してください。偏ったイデオロギーやキャンペーンの熱狂が偏見をうみ、現在も歴史の真実が隠されている。メディアがいくらプロパガンダを流そうとも、事実を変えることはできない。(高裁判決の要旨はこちら




『真実に背向けた集団自決判決』
(産経新聞 08/11/13号 掲載記事)

藤岡信勝/自由主義史観研究会代表・拓殖大学教授


『控訴審批判 大江を勝たせる結論ありきの不当判決』
(歴史論争最前線より 09/1/15掲載記事)
藤岡信勝/自由主義史観研究会代表・拓殖大学教授

『沖縄集団自決冤罪訴訟に思う』
篠原寿一/自由主義史観研究会取材レポート担当者

『最高裁に上告 実質的に判決内容は我々に成果あり!』
(歴史論争最前線より 09/1/15掲載記事)
南木隆治/沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会長

『証言が変われば「虚言」なのか? メディアと結託した判決!』
(歴史論争最前線より 09/1/15掲載記事)
自由主義史観研究会沖縄プロジェクト



@『集団自決の「不都合な真実」 母の真相告白はなぜ改変されたのか?』

(『WILL』 2008年夏増刊号掲載記事)

飯嶋七生/自由主義史観研究会会報編集長

A『集団自決「軍命令」説の生まれた背景 〜証言者母娘の葛藤〜』
自由主義史観研究会沖縄プロジェクト編集

B『自著を否定する宮城晴美氏 証言者の葛藤』(外部リンク)
(ブログ『狼魔人日記』より)



            ≪2008年8月号≫

      マンスリー WILL 増刊

当会の藤岡代表、飯嶋会報編集長も執筆。田久保忠衛×櫻井よしこによる緊急特別対談をはじめ、梅澤少佐の独占手記など多面的に沖縄戦集団自決事件とその背景を検証。渡部昇一、曽野綾子、鴨野 守、狼魔人ほか、この問題に詳しい各界の著名人が集結した、大規模な特集。




座間味島で集団自決事件が起きた前後、梅澤隊長のすぐそばで「自決するな」と村民を説得する、隊長の言葉を聞いた宮平秀幸さん。2008年1月26日、座間味島で偶然、当会の藤岡代表らと出会い、以来、沖縄集団自決事件についての最も重要な証言者となった。宮平さんの証言内容の詳細を紹介した産経新聞記事はこちら

宮平秀幸さんの新証言
2008年2月16日、チャンネル桜放送の番組より抜粋(約9分30秒)



今回の2審で小田裁判長は、梅澤隊長が「自決してはならない!」と言ったという宮平秀幸さんの証言を、過去の証言と違っているので「明らかに虚言」として見向きもしなかった。一方、隊長命令だったとする証言はいとも簡単に採用。だが、そうした方々の過去の証言は、宮平秀幸さんとは比較にならないほど内容が変わっていた。彼らの過去とその後の主張を比較していただきたい。どちらが真実に近いのか?真実を語ったばかりに、大変な目にあった方もいるようだ。宮平秀幸さんが過去に言えなかったことを、語り出したのは不自然なのか?ここでは関係者の書いたこと、話したことを法廷における「証言風」にご紹介する。裁判員になったつもりで、証言の信用性を判定してみてほしい

宮城晴美氏(フリーライター・『母の遺したもの』著者)

隊長命令がないと記したのは、単なる取材のミス? ▼詳細へ
 
当初の主張:責任感の強かった盛秀さんの玉砕命令
“25日夜、母初枝は村の幹部と一緒に梅澤隊長のいる本部壕に、自決するための弾薬をもらいに行きましたが、断られたといいます。しかし、責任感の強かった助役の宮里盛秀氏は、敵の「魔の手」から守るために、自分や妻子の命をも手にかけて、「玉砕」を命令し、決行したのです。追い詰められた住民が取るべき最後の手段として、「玉砕」を選択したものと思われます。戦後、戦死傷者・遺族に国から年金が出ることになり、そのなかで「軍への協力」で死傷した者でないと対象にならないと囁かれました。母初枝は、梅澤隊長とのやりとりを知るたったひとりの生き残りだったことから、村役場から呼ばれ、「自決は『梅澤隊長の命令だった』ということにしてほしい」と頼まれたのです。母は当初は断りましたが、「村民を見殺しにするのか?」と言われ、仕方なく、「自決は隊長の命令によるもの」と証言してしまいました。母は、戦争の悲惨さ、集団自決の悲劇を後世に伝える語り部として沖縄戦のことを書いたり、話したりしてきましたが、「集団自決」の個所にくると、いつも背中に「援護法の目」を意識せざるを得ませんでした。母は良心の呵責に耐えられず、真実の告白をしましたが、助役の遺族や他の住民から激しく糾弾され、心労で亡くなりました”(2000年)

その後の主張:助役の妹さんは軍命令だと言っていた
“25日の夜、母が梅澤隊長のもとに弾薬をもらいに行って帰されたところまでは事実です。しかし、母がその場を去った後、隊長から命令があったのかもしれません。たしかに2000年に出した私の著書では盛秀助役が中心となって玉砕を決定したと書きました。しかし、あらためて宮平春子さんに聞いてみたところ、「お兄さんが軍から自決命令が出たと言っていた」と言っています。春子さんは、当時の助役盛秀さんの妹さんで、当時も取材に伺いましたが、ちょうど、春子さんがお忙しかったため、うっかり聞き漏らしてしまいました”(2007年)

宮村幸延さん(戦後、座間味村役場援護係・旧姓宮里

命令説を否定した「詫び証文」は強要されたもの? ▼詳細へ
 
当初の主張:梅澤さんに申し訳ないことをした
“私の兄盛秀は、戦時中、村役場の助役をしており、昭和20年3月25日の集団自決を命令したといわれています。戦後復員してきた私は、村役場で援護係を担当していました。援護法による年金給付は、戦死や軍への協力者にのみ適用されると聞かされていましたので、自決した人や遺族は対象にならないと思いました。兄の盛秀たち村の三役は自決してしまって、この世におりませんので、当時兄たちと同行していた生き残りの宮城初枝さんを村役場に呼び、「自決が軍の命令ということであれば、村が助かり、住民にも恩恵があるのだから」と、しぶる初枝さんを説得し、厚生省の調査が来たら、「隊長命令」であったと証言するよう頼みました。その約30年後、1987年3月、初枝さんから、このからくりを聞いた梅澤隊長が、私のもとにやってきました。私は、梅澤さんに申し訳ないことをしたと思っておりましたので、この機会に胸のつかえを一気に吐き出しました。「村がこんなに裕福になったのは梅澤さんのおかげです。無断で勝手に軍命令としたこと、本当にすみませんでした」といいました。神戸新聞の中井和久記者にも「アメリカ軍上陸時に、住民で組織する民間防衛隊の若者たちが避難壕を回り、自決を呼びかけた事実はあるが、軍からの命令はなかった。戦後も窮状をきわめた村を救いたい一心で、歴史を“拡大解釈”することにした。戦後初めて口を開いたが、これまで私自身の中で大きな葛藤があった」と答え、同年4月18日の記事に掲載されました”(1987年)

その後の主張:泥酔していたので記憶にない
“私は戦時中には座間味島におらず、山口県におりましたので、自決の実態は知りません。それに、兄が自決を命令したなどと弟の私が言うはずもありません。梅澤さんに書いた『詫び証文』は、梅澤さん本人が書いて、私に印を押すように迫ったのです。筆跡が私のものだからといって、それが私の本心とは限りません。脅されたのです。たしか泥酔させられていました。意識も朦朧としているところで、無理やり書かされたのです。初枝さんからも、梅澤さんが自決命令を出した張本人として苦しんでいるということを聞いていたので、同情してしまったのです。梅澤さんが家族に無実を証明したいというから、その通りに書いただけです。神戸新聞の取材にも同じ内容で答えているといいますが、神戸新聞から取材を受けた記憶はありません。とにかく、あの神戸新聞の記事が出てからというもの、島は騒然となり、村役場からはきつく叱責され、私は座間味島遺族連合会会長を更迭されたのです”(1987年)

大城将保氏(沖縄国際大学講師)

隊長命令の不在は、甘い評価と記憶にない取材? ▼詳細へ
 
当初の主張:隊長命令説は覆った

“曾野綾子氏の『ある神話の背景』は、それまで流布していた赤松隊長が自決命令を下したという通説に、初めて怜悧な史料批判を加えて従来の説を覆しました。赤松隊長の命令説を掲載している『鉄の暴風』の記述の誤りや矛盾をたんねんに指摘しており、自決命令はなかったことを立証しています。この事実関係については今のところ、その節を覆すだけの反証はなく、ほとんど指摘の通りです。『鉄の暴風』は「梅澤少佐のごとき」とか文章のアヤに執筆者の主幹が濃厚に出ていて実証精神を疑わしめるところがあるほか、取材範囲の狭さや、実地検証を欠いているなど弱点が多くあります。座間味についても、長い間梅澤隊長が自決命令を出したことが通説となっていました。しかし、85年7月10日の「神戸新聞」が集団自決当時の体験者である宮城初枝さんの告白を掲載し、梅澤氏本人からも修正の申し出がありました。これを契機に検証した結果、梅澤隊長が「自決命令を出した」というのは事実ではないことが分かりました。「沖縄県史」の執筆メンバーとしての責任もあり、翌年には「沖縄県史料編集所紀要」(86年3月発行)で梅澤さんの「戦斗記録」とともに修正見解を掲載しています”(1986年 当時、沖縄史料編集所専門員)

その後の主張:新聞記者に答えた記憶はない

“あの(沖縄県史料編集所)紀要の記述は梅澤氏の記録をそのまま写しただけで、私の見解ではありません。86年6月6日の「神戸新聞」に「『沖縄県史』訂正へ部隊長の『玉砕命令』はなかった」という見出しの記事があり、そこに私の談話も載っていますが、そんな話をした記憶はありません。曾野綾子氏の著作に対しても、われながらずいぶんと甘い評価をしたと今は恥ずかしく思っております。確かに、赤松隊長の自決命令はなかった、と論じた曾野氏の著作について、「今のところ、曾野説をくつがえすだけの反証は出ていない」と書きました。しかし、私の真意は文章全体を読めば、慶良間の集団自決について研究者や行政による総合調査を求めたものだと分かるはずです。神戸新聞(81年6月6日)に、「宮城初枝さんらからも何度か,話を聞いているが,『隊長命令説』はなかったというのが真相のようだ」 「梅沢命令説については訂正することになるだろう」という私のコメントが載せられていますが、神戸新聞の取材を受けた記憶はありません。記者が勝手にでっち上げたのだと思います”(1986年)

宮平秀幸さん(事件時、15歳・座間味島防衛隊員)

梅澤隊長と行動を共にした3月25日に見たものは? ▼詳細へ
 
本田靖春さんの取材に答えて

“(3月25日)午後10時を期して全員で集団自決するので忠魂碑の前に集合するように、との命令を宮平さんのもとへ届けに来たのは、村役場から伝達員という役目を言いつかっていた男女二人であった。
「じゃ、死ぬのはどういうふうに死ぬのか、って訊いたんです。そうしたら、軍の方から爆雷(特殊艇用)を提供してくれるような話だから、爆雷で吹っ飛んだら、全然苦しむようなことはない、夢見ている心地であっという間に死ねるから、この爆雷が爆発し終わらないうちに間に合うようにぜんぶ参加してくれ、っていうんですよ。死に対する参加なんですね」
祖父母は羽織袴で正装し、母と姉は晴れ着を身にまとい、こどもたちもとっておきの外出着に着替えて、宮平家の七人が忠魂碑の前に着いたのは、そろそろ午前0時になろうとしたころであった。だれかが軍に爆薬をもらいに行った、という話しがその場に流れたが、待てど暮らせど現物は届かない”(『小説新潮』 1987年)

ビデオ「戦争を教えて下さい」に出演して

“25日の午後8時半か9時頃になり、 軍が…(ママ)玉砕命令が出ているから忠魂碑前で自決するので集まるようにと伝令が来たので忠魂碑前に行ったが、 艦砲射撃の集中攻撃を浴び,、各自の壕で自決せよということになり、家族で整備中隊の壕の前等を経由して、夜明けに自分たちの壕にたどり着いた”

毎日新聞の取材に答えて

3月25日早朝から座間味島は戦争のもっとも苛烈なルツボに投げ込まれた。戦争という悲劇のクライマックスの幕が一挙に開いたのだ。夜9時頃、本部壕前で梅沢少佐と村長らの話を聞いた。村長らは「軍の足手まといや捕虜になるより住民一同自決したい。爆弾か手榴弾を」と要求したが、「弾丸一発でも敵を倒すためにある。住民に渡すことはできぬ」と梅沢少佐はきっぱり断った。  
「僕は少佐らの近くに居た」と宮平さん。軍命令のよる住民集団惨死ではなかったとの証言である(2001年6月28日)

その明け方、僕は家族連れで整備中隊壕に行き、自決さすことを頼んで本部壕に帰ろうとしたら、内藤中隊長や幹部らにさんざん怒られた。「軍は住民と国土を守るためにある。住民を殺すことはできぬ。早く安全な所に避難して、必ず誰かが生き残り、亡くなった人々の霊を祭るんだ。それがお前の役目だろう」と言いながら、米、梅干、金平糖、カツオブシ等軍の糧食を袋に入れてくれた。「節約すれば一ヶ月は大丈夫。何としても生きろ」
僕らはシンジュ(昔、老人の死所)の森の避難壕に向かう途中、日本刀を持つ国民学校の教頭に呼び止められた。「なんでお前らはまだ自分で死ねんのか。自決できぬなら俺が斬ってやる」と日本刀を抜こうとした。「なんでお前に孫やうちらが殺されねばならんのか」と祖父母が必死の形相で反抗したため事なきを得た」と宮平さん。敵は眼前にも居たのだ。(2001年7月5日)

専修大学のゼミナール取材に答えて

歴史年表からは見えなかった、もう一つの歴史
〜座間味・日本の歴史と宮平秀幸さんの自分史との比較〜

【宮平秀幸さん−当時15歳】

梅澤部隊長と行動を共にしていた。
●3月25日の夜<集団自決の相談>
村長−野村正次郎、助役−宮里盛秀、収入役−宮平正次郎、以上の三人が部隊長に集団自決の相談にくる。この部隊長の側に宮平さんはいたといいます。

梅澤部隊長と行動を共にしていた。
●集団自決の相談(3月25日の夜)
村長−野村正次郎、助役−宮里盛秀、収入役−宮平正次郎、以上の三役が部隊長に集団自決の相談に来る。部隊長「村長、助役。何をおっしゃいますか。軍としては何もできない。軍は、国土、国民、財産を守る。民間人を助ける。米軍上陸前に民間人を殺すことは、天皇に申し訳が立たない。家族、一人でも生き残れ。犬死するな。米軍が上陸したら、そのとき考えろ。」 三人は壕を追い出された。

沖縄県記者クラブにて

“いよいよ明日は敵軍が上陸してくるという25日の夜、正確な時刻はわかりませんが、9時と10時の間ぐらいのときでした。野村正次郎村長、宮里盛秀助役、宮平正次郎収入役の村の三役と国民学校の玉城盛助校長が戦隊本部の壕に来ました。私の姉で役場の職員の宮平初枝と、同じく役場職員の宮平恵達もついてきていました。ただし村長は少し遅れて来たように思います。これに戦隊長の梅澤裕少佐が対応されました。壕の入口にはアメリカ軍の火炎放射器で焼かれるのを防ぐため、水で濡らした毛布を吊していました。その陰で、私は話の一部始終を聞いていました。隊長とは2メートルぐらいしか離れていません。当時、私は15歳で、防衛隊員として戦隊本部付きの伝令要員をしていました。  
助役は、「もう、明日はいよいよアメリカ軍が上陸すると思いますので、私たち住民はこのまま生き残ってしまうと鬼畜米英に獣のように扱われて、女も男も殺される。同じ死ぬぐらいなら、日本軍の手によって死んだ方がいい。それで、忠魂碑前に村の年寄りと子供を集めてありますから、自決するための爆弾を下さい」と言いました。
すると梅澤隊長は、「何を言うか!戦うための武器弾薬もないのに、あなた方を自決させるような弾薬などありません」と断りました。助役はなおも「弾薬やダイナマイトがダメならば毒薬を下さい。手榴弾を下さい」と食い下がりました。
そこで梅澤隊長がさらに出した命令は、「俺の言うことが聞けないのか!よく聞けよ。われわれは国土を守り、国民の生命財産を守るための軍隊であって、住民を自決させるためにここに来たのではない。あなた方に頼まれても自決させるような命令は持っていない。あなた方は、畏れおおくも天皇陛下の赤子である。何で命を粗末にするのか。いずれ戦争は終わる。村を復興させるのはあなた方だ。夜が明ければ、敵の艦砲射撃が激しくなり、民間人の犠牲者が出る。早く村民を解散させなさい。今のうちに食糧のある者は食糧を持って山の方へ避難させなさい」というものでした。村の三役たちは30分ぐらいも粘っていましたが、仕方なく帰っていきました”(2008年3月1日)

関連年表
1977年3月 宮城初枝さん、娘晴美氏に梅澤隊長命令説は偽証だったと告白
1980年12月 宮城初枝さん、梅澤隊長に那覇で面会して真実を告白、謝罪
1982年7月 宮城初枝さん、梅澤氏への手紙で『悲劇の座間味』再刊時に偽証の訂正を誓う
1985年7月 神戸新聞、集団自決「日本軍の命令はなかった」との記事が載る
1986年6月 同紙に大城将保氏の「宮城初枝説が真相」「沖縄県史訂正へ」との談話/東京新聞も「部隊長の玉砕命令はなかった」との記事掲載
1987年3月 助役の弟、宮村幸延氏、梅澤隊長に詫び証文を書く
1987年4月 神戸新聞、「命令は助役だった」「弟が証言 補償得やすくするため」と報道/東京新聞も「村助役が命令」と報道→宮村幸延氏、真相の暴露により村役場から叱責、遺族会会長を解任される
1988年1月 『小説新潮』で、本田靖春氏が軍命令説を否定(宮平秀幸氏、真相を証言せず
1990年4月 宮平秀幸氏、読売テレビの取材に「村長の解散命令」を語ってしまい、村長に叱責される宮城初枝さん逝去
1992年 宮平秀幸氏、「戦争を教えて下さい」ビデオ収録(宮平秀幸氏、真相を証言せず
1995年6月 宮城晴美氏、沖縄タイムスに「母の遺言」上・中・下連載
2000年12月 宮城晴美氏、『母の遺したもの』刊行沖縄タイムス、同書を「集団自決を命じたのは座間味村役所の助役だった」と紹介
2001年6月 宮平秀幸氏、毎日新聞紙上で梅澤隊長が自決用の弾薬提供を断っていたと証言
2001年12月 『母の遺したもの』が第22回沖縄タイムス出版文化賞を受賞
2003年9月 宮平秀幸氏、専修大学大矢根ゼミに梅澤隊長が「犬死にするな」と言ったと証言
2005年8月 梅澤元隊長ら大江健三郎・岩波書店を相手取って提訴
2007年6月 宮城晴美氏、助役の遺族に会い、自決は助役でなく隊長命令だったと認識を変える
2007年7月 宮城晴美氏、大阪地裁で自著『母の遺したもの』における助役命令説を否定する証言
2008年1月 宮平秀幸氏、梅澤隊長が「決して自決するでない」と言ったと証言/宮城晴美氏、『母の遺したもの』を隊長命令説にたって改訂

◆関連記事: 『証言が変われば「虚言」なのか? メディアと結託した判決!』
(歴史論争最前線 09/1/15掲載記事)自由主義史観研究会沖縄プロジェクト



宮里家は当時、座間味村で指導者的立場にあった。昭和31年に父・盛永さんが事件時について『自叙伝』を執筆。昭和62年には四男・幸延さんが新聞取材で証言。本人直筆の「詫び証文」も残っている。翌年は次女・峯子さんもジャーナリストの取材に答えており、これらのいずれも軍命令説を否定している。だが、平成19年の三女・春子さんの新証言だけが他と異なるのは何故なのか?

★幸延さんの詫び証文:「昭和20年3月26日の集団自決は梅澤部隊長の命令ではなく当時兵事主任兼村役場助役の宮里盛秀の命令で行なわれた。之は弟の宮村幸延が遺族補償のためやむえ得えず隊長命として申請した、ためのものであります」(昭和62年3月28日付)

盛永さん(元座間味村長・盛秀助役らの父)

玉砕しようかと家族に相談し、全員が賛成していた ▼詳細へ
 
「(3月)24日…敵の上陸寸前である事に恐怖を感じながら、此の調子だと今明日中に家族全滅するのも時間の問題であると考へたので、せめて部落に居る盛秀夫婦、直、春子らと共に部落の近辺で玉砕するのがましではないかと、家族に相談したら皆賛成であった」  

「(3月)25日…丁度午後9時頃、直が一人でやって来て『お父さん敵は既に屋嘉比島に上陸した。明日は愈々座間味に上陸するから村の近い処で軍と共に家族全員玉砕しようではないか』と持ちかけたので皆同意して早速部落まで夜の道を急いだ」(宮村盛永 『自叙伝』 昭和31年起稿)

盛秀さん(長男・当時村助役・兵事主任・防衛隊長)

村民がとるべき手段を決定する役割を担っていた  ▼詳細へ
 
「助役の宮里盛秀は行政を担当しながら、兵事主任、防衛隊長を兼務して最も軍に近い立場にあり、戦時下では村長を上回る権限を有していた。盛秀は村のなかでも最も多忙で責任の重い地位にいたのだった。したがって、上陸の前触れである艦砲射撃を受けながら、住民のとるべき手段をいち早く決定する役割が盛秀にはあった」  

「彼は村の助役として、3年余りにわたって『大詔奉戴日』の儀式を執り行い、住民の戦意高揚、天皇への忠誠心を指導してきた中心人物であった。追い詰められた住民がとるべき最後の手段として、盛秀は『玉砕』を選択したものと思われる。それは各濠でそれぞれの家族単位でではなく、全住民が集団で、忠魂碑の前で決行することに意味があったようだ」

「助役は隊長に『もはや最後の時が来ました。私たちも精根を尽す限り軍に協力致します。それで若者達は軍に協力させ、老人と子供たちは軍の足手まといにならぬよう忠魂碑の前で玉砕させようと思いますので弾薬を下さい』と、申し出ました」(宮城晴美 『母の遺したもの』 2000年)

幸延さん(四男・戦後座間味村役場援護係)

事実に反して歴史を《拡大解釈》したと認めていた  ▼詳細へ
 
「アメリカ軍上陸時に、住民で組織する民間防衛隊の若者たちが避難壕を回り、自決を呼びかけた事実はあるが、軍からの命令はなかった。戦後も窮状をきわめた村を救いたい一心で、歴史を《拡大解釈》することにした。戦後初めて口を開いたが、これまで私自身の中で大きな葛藤があった」(神戸新聞 1987年4月18日)

直さん(五男)

軍の弾薬を盗んで家族と自決をするつもりでいた   ▼詳細へ
 
「『もしも敵兵が上陸して来たら、敵兵を殺してから死ぬ』と私(宮平秀幸)が言いますと、直は、『一家で自決する』と言います。直の家では早くから一家で自決することを話し合っていたようです。この時、直は、「秀幸、俺に手を貸してくれないか」と切り出しました。何事かと訊いてみると、直は、「軍の弾薬を盗みに行く」というのです」(3月24日夕刻6時頃、直に会った同級生との会話より 『宮平秀幸 陳述書』)

峯子さん(次女)

兄から、恥をさらすより玉砕しようと言われていた   ▼詳細へ
 
「そこへ兄(盛秀)が出てきて、米軍が上陸したらこちらから連絡するから、日本人として生まれたからには敵の手に捕まって恥をさらすよ り、日本人らしく立派に玉砕しようね、といったんです」(本田靖春 「第一戦隊長の証言」 『小説新潮』 1988年1月号)

春子さん(三女)

村民の集団自決は、盛秀さんの命令でないと主張  ▼詳細へ
 
「座間味島の住民の集団自決は、私の兄の盛秀が命令したものではなく、軍が命令したものであることは間違いありません。盛秀は『軍の命令で玉砕するように言われている』と、はっきり言っていました」(『宮平春子陳述書』 2007年5月提出)



林 博史氏(関東学院大学教授)

村の指導者の「決定」、「指示」は「軍命令」に等しい ▼詳細へ
 
「「集団自決」をおこなった人々の意識、といっても単純ではない。「集団自決」をおこなった集団内の階層を区別しなければならない。大きく分けると、次のようなグループにわけられるだろう(閉ざされた空間であった渡嘉敷島を一つの典型として考えてみる)。@村長、組合長、巡査、学校長・教員など村(島)の指導者 A元軍人、防衛隊員など軍隊経験者や現役軍人 B警防団などに組織された少年たち C一般の大人たち(成青年の男子は軍に招集されているのでほとんどは女性) D老人たち Eこどもたち 単純に類型化して整理してしまうと、「集団自決」を主導した人々は@Aの人々であり、Bの人々もその実行者だった。@は自己を軍と一体化させた指導者として捕虜になることは恥辱であり、天皇のために死ぬことを美徳と考えていたグループである。@のような指導者が「自決」を決定し、村民(島民)に指示した場合、この人々にとってそれは命令と同じことでそれに逆らうことは難しかった。戦時体制の下で村の指導者の指示は、軍の上官の命令に等しい重みと強制力があったことを忘れてはならないだろう。そう考えると、このCDの人々は軍や村の指導者たちによって、「集団自決」に追いやられ、巻き込まれた人々と見ることができる」(林博史「沖縄戦の中のもうひとつの住民像」 『脈』 1991年12月)

「「自決」を主導したのは村の幹部や校長ら学校の教師たちと見られる。村のなかの有力者であり、軍に協力して軍と一体化していた層である。島民にとっては「当時の役場の職員といったら、とても怖い存在でしたので、絶対服従」の存在であり、それは村が軍と一体となっていたことによって増幅されていたと見られる」(「集団自決の再検討」 『歴史評論』 1992年)

渡嘉敷島:「(中略)犠牲者は329人と言われている。……赤松隊長から自決せよという形の自決命令は出されていないと考えられる。これが一体どこからでてきたのかわからないが、自決せよという「軍命令」が語られ、それを受け入れるような精神状態が作り出されていたことが重要だろう」

座間味島:「米軍の本格的な艦砲と空襲が始まった3月25日夜、村の助役や収入役、校長ら島の指導者たちが戦隊長のところへ行き、忠魂碑の前で玉砕するので弾薬を下さいと頼んだが、部隊長は断った。その夜、役場の職員らによって島民に対して、忠魂碑前に集まるよう連絡が回った。「玉砕命令が下った」と聞いた人もいるが、そうでなくても人びとはそれが「玉砕」を意味していると受け止めていた。軍からの明示の自決命令はなかったが、……「自決」を主導したのは村の幹部や校長ら学校の教師たちと見られる」(『沖縄戦と民衆』大月書店 2001年 161〜162頁)

大城将保氏(沖縄国際大学講師)

遺族年金などの関係で事件を語るのはタブーだった ▼詳細へ
 
「ある島では、当時の事件を語ることが島全体のタブーとなっていた。タブーの理由はいろいろある。村の有力者が当時の責任問題をあばかれるのを恐れて村人達の口を封じているケースもあったし、援護法にもとづく遺族年金との関係で真相を語りたがらないという事情もあった」(改訂版 『沖縄戦』高文研 1988年)

大田昌秀氏(元県知事 当時鉄血勤皇隊員)

国士隊は‘軍官民共生共死’を指導するはずだった  ▼詳細へ
 
「昭和20年3月に組織された国士隊には…医師や教員、県会議員、市町村長、大政翼賛会の支部長といった人たち、つまり各界の指導者がほぼ網羅されていました。そして彼らは、具体的に『60万県民ノ総力体制ヘノ移行ヲ急速ニ推進シ軍官民共生共死ノ一体化ヲ具現セシムル』よう指導する手筈になっていたのです」(『沖縄』 朝日文庫 1996年)


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座間味・宮里育江さん(当時、軍属)

梅澤隊長の命令は、安全な場所への避難だった    ▼詳細へ
 
「3月26日朝、『敵艦隊座間味に上陸した』と伝令がきました。そして、『女性の軍属のみなさんは、住民が裏の山に行っていますから、食糧の持てるだけのものは持って移ってください。部隊長の命令です』と言われ、出ていくことにしました。けがをした兵隊たちには、それぞれ元気な兵隊たちがついていおりましたので、私たち5人だけで逃げようということになったのです」 (『座間味村史』下巻 1989年)

座間味・宮城初枝さん

待ちなさい、そんなに死に急ぐことはないと諭された ▼詳細へ
 
「いざとなったら自決するつもりでいたんですけど、本能的に死ぬのがこわくなるんですね。それで、家が下谷さん(兵長)たちをお世話していた関係から、気心の知れた整備中隊の壕に、私たちを殺して下さい、とお願いに行ったんです。そしたら、待ちなさい、そんなに死に急ぐことはない、とさとされましてね。しばらくすれば、われわれは敵に向って突撃するつもりだから、そのあとはこの壕が空になる。まだ米や缶詰が残っている。だからこの壕を使いなさい。ここなら安全だからと励まされました」 (本田靖春 「第一戦隊長の証言」『小説新潮』 1987年)

座間味・松本光子さん

玉砕しろと手榴弾を渡したのは役場や青年団だった ▼詳細へ
 
「私たちは、死ぬときはいっしょだ、っていいかわしながら逃げました。お父さん、お母さん、姉さんたちにその子供たち、10人以上いました。そうして山の中に部落の人が集まっていたとき、上の人から--いえ、兵隊じゃなくて、役場や青年団の人--玉砕しろって、手榴弾を手渡されました。私たちは、死にきれなかったんです」(『生き残った沖縄県民100人の証言』 1971年)

座間味・宮里米子さん

銃を構えたのは兵隊姿をしていた役場の職員だった ▼詳細へ
 
「轟く艦砲の恐怖と寒さに震えながら、米子の家族は避難所を探して近くの山を目指して歩いていきました。丘の斜面を登っている途中、砲弾のうなり声の合間から、ひそひそと人の声がもれてくるのに気がつきました。
…すると、月明かりの下でひとつの家族が寄り添っているのが目に止まりました。年寄りと子供たちのようでした。…すぐ側に銃を持った一人の兵隊が立っていました。米子は「どうするんだろう」と、息を殺して見ていました。長い沈黙をやぶったのは、群れの中の男性の悲壮な声でした。 『トー、ナマヤシガ(さー!今だよ)』
するとその日本兵はおもむろに家族の方に銃を構えました。腰には弾丸を詰めたベルトが重そうに巻かれています。銃身が月影に鈍く光ります。…この親子の姿を見ていたおばあさんらしい人が、銃を向けていた兵を止めました。 『ナー、シムサ、シムサ(もう止めなさい、止めなさい)』
兵隊は間をおいて、銃を降ろしました。そして、その家族から目を背けるように、こちらを向きました。兵隊の姿をしていたのは、何と村役場の職員一人でした」

「…息も絶え絶えに着いたところは産業組合の壕でした。
『新神里の家族は出てください。新神里の家族は出てください。ここは役場の家族が入ります。出てください』
何度もそう繰り返されて目が覚めました。その声の主を見ると、先程、銃を構えていたあの役場の男の人でした。当時の役場の職員といったら、とても怖い存在だったので、米子たちは何も言わずに、素直に従うしかありませんでした。…米子たちが出た後、役場職員の家族を中心に大勢の人たちが、その壕の『集団自決』をしたのです。生き残った者は一人もいませんでした」(宮城恒彦 『潮だまりの魚たち』 2004年)

座間味・宮平春子さん

生きずに死ねと詰め寄ったのは、村の有力者だった ▼詳細へ
 
「村の有力者に父が詰問された。『お前は村の親分なのに何でここまで生きてきたのか。恥を知れ。いつまでも生きていないで、死ね』。父は元村長で、当時産業組合長だった。詰め寄る村の有力者に対し、こう言った。『自分は子や孫もたくさんいて、どうしても子どもや孫たちには手を掛けきれないから、恥を捨ててここまで逃げてきた』」 (琉球新報 2008年6月28日)

座間味・宮平秀幸さん

教頭は「玉砕命令は村の三役で決定した」と言った  ▼詳細へ
 
「私たち家族が第二中隊の壕を出て、高又川という細い川のそばを歩き始めた時、座間味部落の方角から一人の兵隊が刀を下げて走って来ました。近づいて見ると、国民学校教頭の山城安次郎先生でした。先生は私たちに向かって、いきなり、『民間人は皆死ねと言っているのに、何でうろちょろしているんだ。死にきれないのか。死ぬ道具がないなら今、私が叩ききってやるからそこに並べ』と叫んで腰の日本刀を抜きました。祖父が、『殺すのを待ってくれ』と言うと、『玉砕命令を出しているのに、何で死なないのだ』と先生は言います。祖父は、『山城先生。夕べ、忠魂碑の前で、〈部落民は死んではいけない、集まった人を解散させて、山なり、谷なり、防空壕なりに避難させなさい、ということだったので解散する〉と村長が言ったのに、今頃になって先生が私たちを殺そうとするのは、どういうわけですか。部隊長も本部壕で村の三役に、自決させてはいけないと言っているのに、今になって殺すとは、誰の命令ですか』」口答えしました。母も祖父に口添えしました。山城教頭は、『玉砕命令は、梅澤隊長の命令ではない。昨日(3月25日)の昼過ぎ、村長、三役で決め、郷土防衛隊長(宮里盛秀)の命令として出させたものだ。各自、個人個人の壕を回って、軍の命令だと言って忠魂碑の前の広場に集合させなさいと伝達させたのだ』と答えました。山城教頭は、『臆病者たち。お前たちはそれでも日本人か! いざという時は舌をかみ切ってでも死ね! 私の家族には手榴弾を渡してきたから、もうとっくに自決は終わっているはずだ。産業組合の防空壕も、みんな揃って自決が始まっている』と言いました。山城は抜いていた剣をさやに収め、本部壕の方向に上がって行きました」 (宮平秀幸 『陳述書』 2008年9月 大阪高裁提出)

渡嘉敷・金城重明さん(牧師)

何より恐れたのは敵に家族を惨殺されることだった  ▼詳細へ
 
「決して、われ先に死に赴く男性は一人もおりませんでした。愛する者を放置しておくことは、彼らを最も恐れていた『鬼畜米英』の手に委ねて惨殺させることだったからです。『集団自決』が進行するにつれ、『生き残る』ことへの恐怖心と焦燥感のボルテージが極度に高まってくるのを強烈に感じました」

「自決命令が出たとか出なかったとか、隊長や軍人が何をしたかよりも『生より死を願う』異常心理に追いつめた『皇民化教育』こそが、あの残酷物語の演出家だったのであります」 (金城重明 『集団自決を心に刻んで』 1995年)

渡嘉敷・兼城三良さん

米軍上陸の際は死ぬのでなく、戦えと言われていた ▼詳細へ
 
「私達は前もって(アメリカ軍)上陸の場合は、全員竹槍を持って戦えということを教えられていましたため、そうするつもりでした。しかし、上陸して来たアメリカ兵を見た時、立ち向かうというより、すぐ死ぬことを考えました。一緒にいた部落民は、父親が妻や子の首を絞めたり、夢中になって木にぶら下がる者、ねこいらずをうばいあって、舐めて苦しむ者、表現できないほど残虐なことがやってのけられていました。 (『沖縄県史』10巻)

渡嘉敷・徳平秀雄さん(当時、郵便局長)

防衛隊員は、「妻子を片づけよう」と手榴弾を配った  ▼詳細へ
 
「恩納川原に着くと、そこは阿波連の人、渡嘉敷の人でいっぱいでした。そこをねらって、艦砲、迫撃砲が撃ちこまれました。上空は飛行機が空を覆うていました。そこへ防衛隊が現われ、わいわい騒ぎが起きました。砲撃はいよいよ、そこに当っていました。そこでどうするか、村の有カ者たちが協議していました。村長、前村長、真喜屋先生に、現校長、防衛隊の何名か、それに私です。敵はA高地に迫っていました。後方に下がろうにも、そこはもう海です。自決する他ないのです。中には最後まで闘おうと、主張した人もいました。特に防衛隊は、闘うために、妻子を片づけようではないかと、いっていました。防衛隊とは云っても、支那事変の経験者ですから、進退きわまっていたに違いありません。防衛隊員は、持って来た手榴弾を配り始めていました。…そういう状態でしたので、私には誰かがどこかで操作して、村民をそういう心理状態に持って行ったとは考えられませんでした」(『沖縄県史』10巻)

渡嘉敷・大城良平さん(当時、防衛隊)

赤松部隊の命令ではなく、自発的に選んだ死だった ▼詳細へ
 
「赤松隊長が自決を命令したという説がありますが、私はそうではないと思います。なにしろ、赤松は自分の部下さえ指揮できない状況に来ていたのです。私は自分の家内が自決したということを聞いて、中隊長になぜ自決させたのかと迫ったことがありました。中隊長は、そんなことは知らなかったと、いっていました。ではなぜ自決したか。それは当時の教育がそこにあてはまったからだと思います。くだけて云えば、敵の捕虜になるより、いさぎよく死ぬべきということです。自発的にやったんだと思います。それに『はずみ』というものがあります。あの時、村の有志が『もう良い時分ではないか』といって、万才を三唱させていたといいますから、それが『はずみ』になったのではないでしょうか。みんな喜んで手榴弾の信管を抜いていたといいます。集団自決と部隊とは何も関係ありません。軍隊は勝つために一生懸命でした。集団自決をとりあげて、部隊がどうのこうのと書く、それが後世に悪い影響として残ります」 (『沖縄県史』10巻)

今回の特集でご紹介しました全ての証言は、こちら のPDF形式でまとめてお読みいただけます。プリントアウト用にもご活用ください。




『沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会』HP

「沖縄集団自決、高裁判決を疑う」

「MSN産経ニュース」【主張】沖縄集団自決訴訟 判決と歴史の真実は別だ
「MSN産経ニュース」【「真実でないことが明白になったとまでいえず」】
「MSN産経ニュース」【上告審では真正面から判断を】
「MSN産経ニュース」【原告の名誉回復ならず「最高裁でも闘う」】

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