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新撃論ムック・情報戦「慰安婦・南京」の真実より
南京の真実を求めて

南京大虐殺はこうして生まれた

藤岡信勝(自由主義史観研究会代表・拓殖大学教授)

(一)日本軍が南京を陥落させた時、南京城内の市民は南京安全地帯(安全区)に避難していた。陥落直前の人口は20万だったが、その後も20万で変わらず、1ヵ月後の1月14日には25万人に増加している。万単位の規模の市民虐殺はあり得ない。

(二)国民党政府の公式文書である『南京安全地帯の記録』によれば、安全区内の殺人事件は26件にすぎず、そのうち目撃者のいるのは1件のみで、それも不法殺害ではなかった。

(三)国民党政府が南京陥落直前から約11ヵ月の間に漢口で開いた300回の記者会見で、ただの一度も「南京で市民の虐殺があった」「捕虜の不法殺害があった」と発表していない。

以上で、巷間いわれる南京虐殺なるものがなかったことの証明としては十分であるといってよい。ではなぜ多くの人々が南京虐殺があったかのように思い込まされて来たのだろうか。

過去10年間の南京事件研究の進展はこの問いに答えるものであり、その特徴は、虐殺宣伝の虚構性が暴かれたことと並んで、虚偽の宣伝の背景が新しい史料の発掘によって暴露されたことである。



暴かれた宣伝工作

第一に、南京虐殺の証拠写真として扱われてきたものがことごとくニセモノだったことが明らかになった。東中野修道氏らの『南京事件「証拠写真」を検証する』(2005年、草思社)は143枚の写真を網羅的に検討し、南京虐殺の証拠写真として通用するものはただの一枚もないことを証明した。

そればかりではなく、それらの写真は、国民党中央宣伝部国際宣伝処がプロパガンダ写真として独自に撮影したり、既存の写真を改竄したりしたものであることが国民党の極秘文書に基づいて暴露された。写真の撮影は1938年の春から夏にかけて行われたので、日本軍による虐殺場面とされた写真の多くに夏服の中国人が写され、12月から1月にかけて起こったはずの南京事件との矛盾が生じたのはそういう事情によるものであろうと推定できる。

第二に、写真に限らず、中国国民党による謀略的宣伝工作の全体像がほぼ明らかになった。上海戦の敗戦以後、日本に対する軍事的劣勢を補うため、国民党は中央宣伝部を設け、「宣伝は作戦に優先する」を合言葉に宣伝に力を注ぐようになった。宣伝の内容は、南京戦を中心として日本軍=日本人が残虐な民族であるという認識を広め、世界の同情を中国に向けることであった。宣伝にあたって重視したことは、中国人は宣伝の主体としては表に出ず、宣伝材料の提供に専念することとし、欧米人を「国際友人」として表に立てて代弁させる「曲線的宣伝」の手法を用いることであった。(東中野修道『南京事件 国民党極秘文書から読み解く』2006年、草思社)

ティンパーリ著『戦争とは何か』は、この宣伝戦の成果の第一弾だった。著者はイギリスのマンチェスター・ガーディアン紙の特派員で、従来、同書は中立的で公平な第三者の欧米人ジャーナリストによる著述として権威を認められてきたのであった。しかし、彼の正体は中央宣伝部の顧問であり、『戦争とは何か』は、*中央宣伝部がお金を使って頼んで本を書いてもらい、それを印刷して出版したプロパガンダ本であった。ロンドンとニューヨークで発売された同書は、「南京虐殺」を世界に広める上で決定的な役割を果たした。

*『曽虚白自伝』には中国国民党中央宣伝部がティンパーリに「お金を使って頼んで、本を書いてもらい、それを印刷して出版」したという曽虚白(南京大学教授、のちに中央宣伝部国際宣伝処処長)の証言が記されている。


捏造にも歴史があった

第三に、南京事件とよばれるものの内容が、歴史的段階的に発展していることが整理された。冨澤繁信氏の『「南京事件」発展史』(2007年、展転社)は、それを次の四つの段階に区分し、それぞれの段階における政治的狙いを明らかにした。

<一>「南京安全地帯の記録」に書かれた「原初的南京事件」は、アメリカ人宣教師たちの南京の行政権確保のための道具だった。

<二>アメリカ人宣教師で大学教授でもあったマイナー・ベイツは、南京を去るダーディンらのアメリカ人記者に日本軍の残虐行為を創作したメモを渡し、それが新聞に報道された。また、ベイツは上海にいるティンパーリに南京で起こったこととして書いた書簡を送り、それが『戦争とは何か』の重要な部分を構成した。これによって南京事件は安全区の強姦・略奪・放火事件から、初めて「4万人」という数字を伴った虐殺事件として扱われ始める。今日につながる南京事件概念の骨組みはベイツの働きによって出来上がったのである。そして、そのベイツもまた国民党政府の顧問であり、エージェントであった。「ベイツ南京事件」は、このように国民党の戦時宣伝として仕組まれたものであった。

<三>次に南京事件が取り上げられるのは東京裁判においてである。東京裁判では、アメリカが日本を精神的に再起不能にするための道具として南京事件が利用された。

<四>朝日新聞の本多勝一記者の「中国の旅」の連載(1971年)に始まる南京事件は、中国共産党政府が対日外交・アジア外交を有利にするための道具としてつくられたものであった。

今日では、これに付け加えて、<五>の段階として、1997年に出版されたアイリス・チャンの『ザ・レイプ・オブ・南京』以後の段階を立てることが出来るかも知れない。これによって中国共産党は再び南京大虐殺の宣伝活動の舞台をアメリカを中心とした西欧世界に広げ始めたのである。今年(2007年)製作される予定の12本の南京虐殺告発の映画は、すべてチャンの著書を起点とするものである。


葬られた「30万人説」

さて、右の整理において、ベイツという人物に特別の位置が与えられていることにご注目願いたい。英文で刊行されたティンパーリの『戦争とは何か』には、ベイツが執筆した次の一文がある。「非武装の4万人近い人間が南京城内や城壁の近くで殺されたことを埋葬証拠は示している。そのうち、約3割は決して兵士であったことのない者である」。ベイツの文章は、その後4回にわたって中国国内で発行された英文の年鑑や記録類に転載された。ところが不思議なことに、この一文だけは、抹消されている。しかも、抹消の事実を隠蔽するかのように、前後の文が段落変えをせずに直接続くように編集されている。

東中野修道氏によって発見されたこの不可解な事実も、同氏が台湾で発掘した前述の国民党極秘文書によって理由が判明した。すなわち、国民党中央宣伝部は、現地から遠いロンドンやニューヨークで発行される書物には、「4万人」虐殺説をふ吹聴しながら、地元で発行される英文の記録類からは巧妙に削除した。その理由は、事情に通じた地元に居る欧米人の目に触れるとデマ宣伝であることがたちまち分かってしまい、謀略のすべてが水泡に帰すことを恐れたのである。中央宣伝部自体が極秘文書の中で、日本軍によるものとされた強姦・略奪・放火事件を記録し宣伝することをもって宣伝戦における成功と評価していた。そこには虐殺は含まれていなかった。

今日、「30万人大虐殺」を否定することはもはや中心問題ではない。去る1月30日、*来日した二人の中国人研究者が都内で講演し、南京事件の30〜40万虐殺説は「政治的」なものであり、「学術的」でなかったと述べた。昨年末に始まった日中歴史共同研究の中国側座長である歩平・中国社会科学院近代史研究所所長も同じ立場をとっているといわれる。これは中国共産党としては一大方針転換である。なぜなら、従来、中国は「30万人虐殺」を党が決定した公式見解であるとして譲らなかったからである。こうした情勢の変化を考えるならば、今や問われるべきは「どの規模の虐殺があったか」ではなく、そもそも「虐殺といえることがあったのかなかったのか」という二分法でなければならないと言えよう。

*「政治的」と語ったのは張連紅氏(南京師範大学助教授)で、共に来日したもう一人の研究者である程兆奇氏(上海社会科学院歴史研究所研究員)は、「一次資料では殺害された人数は確定できない」と述べた。

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